ちなみに高校入学するまで全くJpopを聴いてこなかった

 前の記事の続きね。自分が好きなものには好きになった理由が必ずあってそれを考えることで自分や他人を知った気になりたがる私の話。今「はなし」で変換したら一発目に「噺」が出てきたのなんかカッコよくない?まあとりあえず一席お付き合いくださいよ。

SURFACEの話をさせろ

 SURFACE椎名慶治永谷喬夫による音楽ユニットで、90年代から00年代にかけて活動していた。ボーカルの椎名さんはその後ソロでも活動し、また2018年にはSURFACEとして再び活動を開始している。

 

 そのSURFACEの何がそんなに好きなのか?私は音楽は基本的に何でも聴く。強いて言えばメタルが好きだが一番好きなのはJanne Da Arkなのでハードロックも聴くしJpopも聴く。洋楽も聴くしCpopとかボカロでもゲーム音楽でも何だって聴く。先に言ってしまったが一番好きなアーティストはJanne Da Arkだ。SURFACEではない。SURFACEはしかし自分にとって他とは違う特別な音楽だ。その訳は椎名慶治さんの書く詩にある。

ダサさの解像度

 SURFACEの歌詞は決してカッコいいわけじゃない。詩として美しい表現が使われているとかそういう良さでもない。椎名慶治さんの歌詞の良さは”弱い男”の解像度の高さにある。

 「さぁ」ってちょっと有名な曲がある。まもって守護月天っていうアニメの主題歌だったんだよね。ちなみちオープニングのアニメーションがめっちゃいいからぜひ見てくれ。

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“何でも自分で出來る”って 強がるだけ強がってもね
君が居なきゃなんもできないし
こんなちっぽけな部屋が今じゃ ちょっとだけ広く見えるよ
冷蔵庫開けりゃ なんもありゃしないや

(略)

何もかもがうまくいかない なんだか空回りばかりで
君じゃなきゃ大事な物も 全然見つかりゃしないや

(さぁ) 吸いこんでくれ 僕の寂しさ 孤独を全部君が
(さぁ) 噛み砕いてくれ くだらん事悩みすぎる 僕の悪いクセを
(さぁ) 笑ってくれ ダメな奴と“離れて気付くなんて遅い”と
(さぁ) 受け取ってくれ やっぱり君が誰より好きだから
“さよなら”出來ない

  これがその歌詞。この曲には孤独な男の寂しい部屋しか出てこない。最初から最後までどうしようもなくて、”君”がいなきゃ何も出来ない未練がましい男しか出てこない。このどうしようもなくダサくて等身大過ぎる歌詞が自分は好きなんだと思う。誰かを自分のものにしたいだなんてとてもじゃないが言えないくせに感情だけは日常に支障をきたすぐらい強烈な、”弱い男”の解像度が凄まじく高いのだ。

このへんの曲なんてまさにその最たるものだ

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前向きさに傷つけられることがない

 切り拓けマイセルフって曲のサビの歌詞を見て欲しい。

何千回挫折と苦労を味わったって

深み増し匂い立つ漢まとえよ

自分に嘘はつけないって言うだろ

躊躇い払い除け天を刺せ

宣戦布告さ切り拓けマイセルフ

 奮い立たせ応援するような前向きな歌詞だ。しかしこの直後2番の歌詞を見てくれ

なんて強気に言ってはみたもんの

それができりゃ苦労なんてしないやいやい

ただ自分の意識革命にはなんかちょっと

効果があったような気もさあどうでしょう

 これである。”それができりゃ苦労なんてしない”、と来て”さあどうでしょう”である。前向きな歌詞は俺やお前らみたいなネクラには後ろめたかったりときには聴いて傷つくこともある。でも椎名慶治さんは前向きな言葉を押し付けない。自分に言い聞かせるような前向きな歌詞と、簡単には変われない後ろ向きな本音を同時に歌い「俺はこんな感じだけどお前らはどうする?」という具合にネクラな自分を否定せず少しだけ背中を押してくれる。と俺はSURFACEの曲を聴きながら勝手に感じている。

 とまあそんな具合です。「夜中に昔のこと思い出しちゃったりしたときの頭の中でグルグル巡ってどうしようもなく行き場のない感情」みたいなものをツイッターに書き連ねたりしちゃうようなイタくて弱いお前らに聴いて欲しい。それじゃあ

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ちなみに唐突にねじ込んだ豆知識は自慢したかっただけだ。

 何がそんなに面白いのか、何で自分はこれが好きなのか、インターネットやテレビの向こう側にいる同好の士はどんなヤツらで他にどういうものが好きなのか。どういう過去を送ってきたのか、とか。 

 何かを面白いと思ったり好きだと思ったりするとき絶対にこう考える人間なんじゃないか?お前らは。違ったらゴメン。でも俺はそうなんだ。

 例えば自分は妖怪が好きだったりする。キャラクターとしての妖怪から、人間の視界の外側、灯りの届かない闇、忘却されたものへの畏れといったどちらかというと本質的な意味での妖怪まで自分は何故か好きになった。じゃあ何故好きなのか。それは恐らくこの世の中にそういう不思議が存在しないより存在していたほうが、あるいは誰もが信じていたほうが面白いし気が楽だからだ。

 妖怪がいた頃、自然や夜の闇、人の心というのは今より少し畏れられてた。「黄昏時」の「たそがれ」は「誰そ彼」が由来で夕暮れには人の顔の識別がつかなかったということらしいがとにかく昔はそれだけ「視えなかった」そして視えないものを「畏れ」た。あえて「畏れ」と書いたがそれは敬いのニュアンスがあるからだ。別に何も神への信仰というほど大仰なものじゃない。そもそも妖怪なんて意味がわからなくてしょうもない。人んちに上がりこんで茶すする奴が総大将だってんだから。でもその意味がわからなくてしょうもない、自然より少しだけ不思議で不気味な存在の前で人は平等に畏れ敬いあえるように思う。今の世の中じゃ大体の不思議は説明できてしまうし、インターネットのせいでどこだって見えるようになってしまった。人は知ることに駆り立てられて知らないことを責められる。それは悪いことじゃないと思うが自分には窮屈で退屈な気がしてならない。自然も人の心も夜の闇も、不気味なまま影に覆われているぐらいの方が俺たちは謙虚で自由で気が楽で、ちょっとだけ”粋”だったりするんじゃないだろうか。

こんな日記を書いていることを7年前の自分が知ったらどう思うだろうとか考えたらお終いな日記

 ブログを書くと誰かが喜ぶから、あるいはツイッターやらツイキャスやらで断片的なことを繰り返し語ることに流石に辟易してきたからか自分でもよくわからないが何となくでこの黒歴史確定の日記を書くことにした。日記?日記と言うにはこれから言うことはあまりにも今のことでも現実のことでもないので妄言とか怪文書とかそういう部類だ。それにしてもなっがい文章という体をとると急に「だ・である」の構文になるのは何故だろう。無意識にカッコつけてるのか?普段漢字にしない言葉も漢字に変換してしまいそうな気がする。俺にとってそれはこの上なく恥ずかしいのでここは自分の自意識に殺されないためにあえて頭の悪そうな口語で書かせてもらおうかな。

 とここまで書いたはいいが肝心の普段の自分語りがあまりにもまとまりがなさすぎて文章に起こすには無理がありすぎるし完全に言語化出来てしまったら出来てしまったで絶望して死にそうなのでここではもっとぬるいことを書く。自分の本質なんてほどよく見て見ぬ振りして生きていきたいものだからね。